2064.06.21

臨終の近傍

100歳の誕生日。
たぶんこの辺りが私の臨終の近傍。

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2008.10.03

折り返し地点

散らかしてきたものを少しずつ片付ける。
まずは雑誌のバックナンバー。
俳句や短歌の月刊誌は、月々の表紙を見ているだけでも季節感が楽しい。
外に出て、なにか新しいことの一つもしたくなる。
これから人生を片付けていくところなのに。

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2008.02.10

大文字駅伝の思い出

コブタと一緒に大文字駅伝の応援に行った。
あれから1年。なにもかもが懐かしい。

先ず、地下鉄に乗って北山通りまで行き、3区の応援。
====================
コブタと私の大文字駅伝は、2年前の3区の応援から
始まった。
当時、コブタはランニング部にすら入っていなかった
が、私が本部役員の応援要員として北山に出向いた。
本大会への出場自体その年が初めてだったから、
「PTAとしての応援体制を整える」という仕事が
本部の年間活動計画に飛び入りした形だった。

せっかく応援に行ったのだからと、その日の夜、
駅伝のテレビ放送を見ていた。ローカル番組なので、
沿道の知ってる顔がちらちらと映ったりもする。
横で一緒に見ていたコブタは、沿道の知った顔が
映ってることよりも、学年が一つ上の先輩たちが、
このような大会に参加していたことに大いなる
憧れを抱いたらしい。
「来年、私も出たいな」

これは、6年生が学年で10名だけ選ばれるものだ。
しかも、各支部予選があり、どの学校でも出られる
わけじゃない。ランニング部に入っていないどころか、
普段はジョギングすらしたことのないコブタにとって、
それは実現するはずのない夢のつぶやきだと、私は
思っていた。

それが、4月になってランニング部に入り、
めきめきと実力をつけ、選手に選ばれ、予選も
ダントツの一位で通過して、アンカーの十区を
任されたのが一年前のこと。

52校中7位入賞という快挙を遂げ、コブタの大文字
駅伝は華々しく終わったはずだった。
====================
こうしてOBとして応援に行くと、いろいろな思い出を
順にたどることができる。コブタが出た年の駅伝は過去の
ことだけれども、「来年、私も出たいな」と言ったとき
から何かが始まって、それがいまでもずっと続いている
ような気がする。

さて、3区の走者を見送った後、急いで地下鉄に乗り、
丸太町へ。
ゴール地点へ行くルートは、東山から少し上がる方が
歩く距離が少ないのかもしれない。けれども、丸太町を
過ぎた第9中継所から冷泉通りへの10区のコースを、
できればたどりたかった。

けっきょくは列車待ちの時間などもあり、烏丸から
東山は馬鹿にならない距離で、人混みの丸太町通りを
避けて夷川通りを抜け、川端二条に出た。
信号待ちに阻まれながらようやく東山通りを越え、
そのまま二条橋まで行くと、北側の冷泉橋を選手が
走っているのが見える。
急いで京都会館西側を通り抜け、冷泉橋を渡ってくる
我が小学校の選手に声援を送ることができた。コブタは、
走りながら岡崎公園の手前まで選手を見届けたらしい。
冷泉橋で声をかけ走って岡崎公園まで見送るルートは、
昨年、私がコブタを応援していたときと同じだった。

すべてのチームがゴールすると、選手たちが次々と
閉会式場の京都会館に集結してくる。
1区、2区など遠方を走った選手は、バスに乗って
やってくる。
大会の朝は、このバスに乗って選手たちはそれぞれの
中継点に向かったのだ。
====================
昨年は、京都会館から第9中継所の鴨川河畔に向かう
バスを、私も見送った。

京都会館から出てきてバスに乗り込むコブタ。いよいよ
バスが出ようとするとき、なぜか、火葬炉に入っていく
父を見送ったときと同じ気持ちがした。
そう感じたことが不謹慎なのではなく、むしろ火葬と
いうものが、魂の出発だったのかもしれない。

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2007.02.16

とんでもない夢を見た 

そこは小学校の一角。
災害で亡くなった人の遺体がいくつも
展示してあり、私は、展示ケースの掃除を
していた。

一番手前の女性は、土砂崩れの被害者か。
土砂ごと逆さまにもんどり打った形で
こちらを恨めしそうに見つめている。
少し浅黒い、東南アジアに多いような
顔立ちだ。

頭のすぐ手前の泥をぞうきんで拭き取った
とき、少し遺体に触れてしまったのか。
突然、その遺体がむくむくと動き出した。
大急ぎで、教頭に知らせに行く私。

教頭を連れて現場に駆け戻ったときには、
女性は「あ~あよく寝た」みたいな感じで
一つ、のびをして、展示ケースから出して
もらった途端、喜んで飛び上がりながら
帰って行った。
(どこへ?)

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2006.07.06

猫の埋葬 

コブタが「いってきます」と家を出て10分ほど経って
いた。表から「かわいそう」「子猫やなぁ」という騒ぎ
が聞こえる。
まさかの予感的中。懇意にしている野良猫で、この春生
まれたばかりの小さいのが、通りゆく人々の視線を浴び
ながら、道の真ん中でつぶれていた。まだなま暖かいけ
れど、どう考えてももはや肉塊である。

ここは小学生や中学生がよく通る道。すぐ近くには幼稚
園もある。そそくさと亡骸を引き取り、道を洗い流し、
庭に穴を掘った。

猫の埋葬は、これで何回目かなぁ。人の目に触れないと
ころで淘汰されていく野良猫のポリシーも、人の多い町
では押し通すことがむずかしい。

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2006.01.03

正月の実家

子どもたちを連れて実家へ行くのは、花火大会以来か。

父がいなくなってからは、母との会話はまるで発掘作業
のようだ。目新しいものはたいしてなく、昔話と、父の
死はあれで幸せだったのだという納得話。
これからのことといえば、自分が死んだらこうしてくれ、
みたいな話。

それでも、生きている母の顔を見られるのはいまのうち
なのだと思う。

正月は、食べる人がいないからあまり作らなかったとい
いながら、重箱一段分のお節料理を見せてくれた。黒豆
に栗、ごぼう、数の子、こんにゃく……。私よりもよほ
どちゃんと詰めてある。
この家に限らず、いまはお年寄りの一人暮らしや年寄り
夫婦だけの年越しが増えているはずだ。お正月を楽しみ
にする人が居なくなった家では、正月準備のやり甲斐も
半減だろう。

子どもらがせがむので、4人で何度かトランプの七並べ
をした。こんな他愛のないゲームでも、3世代で盛り上
がってることに、ひそかに感謝。

年末年始に弟がニューカレドニアへ行ってきたといって、
チョコレートのお土産をくれた。
あちらにもネコがいたとか、ロシアンブルーのような色
だったとか、ヘビがたくさんいたが、ネコはじゃれるこ
ともなかったとか、そういう感想だった。

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2005.08.10

初盆 

初盆の回向があるので宇治へ。さすがに初盆だけあって、
仏壇は例年よりもかなり豪華に飾られている。

叔母が尋ねてきたら渡すことになってるのだと、戦死し
た祖父の絵を見せられる。見事な絵ではあるけれど、そ
こに祖父の思い出とかそういうものがあるわけでもない。

夜は宇治川花火大会。父が支えてもらいながらようやく
のことテラスに上がり、みんなで眺めた花火大会は、も
はや一昨年のことになった。
あのとき、これが最後になるかもという不吉な予感はあっ
た。そして、実際にそうだった。

元気なときは、花火などちらっと見るぐらいで、あとは
一人で下に降りてビールでも煽ってる方が好きだった父。
最後の花火大会は、小一時間、みんなと一緒におとなし
く見ていた。

そんな思い出が私にはあるのに、父にとってはそんなも
の、なにも残っていないということだろうか。

本日の回向も、まるでその事実を強く知らしめるための
ようだ。

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2005.06.20

父の日そして一回忌

一昨日は実家の父の誕生日だった。
そして、昨日は父のために総勢4名が集まった。

たった4名のくせに、木魚を叩くタイミングが
ぽこぽことずれて、なんともまぬけ。
しかも、木魚はマンボウになんとなく似てる。

仏壇の前に立てられた遺影はまるで悪い冗談だ。
ちょいと父に言いつけてやろう。と雖も、その
父が写真の主なれば、紙切れにもの申しても仕方
なし。

なにしろ仏教の世界。お経とは宇宙のことを朗々と
語っているようである。
肉体が地球に還元される一方で、霊は次元のはるか
彼方にあるらしい。

法事とは、故人をむしろ遠くに感ずるものなり。

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2005.01.01

喪中正月 

普段から正月らしいことはそれほどしない方だったが、
喪中となると、ますますこの日をどう過ごしてよいのか
わからない。「おめでとう」は言えないが、お雑煮ぐら
いは食べるし、甥姪子どもにはお年玉も与える。

喪中といえども、「おめでとうございます」と言わねば
ならないTPOだってある。それだから余計に、こうし
て一人でいるときは、ひたすら喪に服そうという気分に
なる。

もう、あれから半年も過ぎてるし、父の死を知っている
人はそもそも少ないし、「そんな固いこと」と思われる
かもしれない。周りが「おめでとう!」と盛り上がって
いる雰囲気の中で、喪中など主張せず、みんなと合わせ
ていればよいじゃないか、と思う向きもあるだろう。

けれども、一人で正月を過ごしている母のことを思うと、
割り切ることもできない。それは不器用なことか。
父のためにひたすら喪に服すことができるのは、母と弟
と私の三人のみ。だから、できることなら、せっかくお
めでた気分の人々を、いまは避けていたい気すらする。

父の想い出はいろいろあるが、なかでも年末年始にまつ
わるものが、けっこうな割合である。サラリーマンの家
庭では、家族がゆっくり顔を合わせる機会は盆正月ぐら
いだから、どこでもそういうものなのだろう。
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2004.12.30

暮れの錦市場

父の月命日。あれからもう、半年。

京阪の駅までは、錦市場を通って行った。さすが歳の暮
れ。流れにそって進むしかない大賑わい。
スーパーがカートで混雑してるのは苦手だが、賑わう市
場はおもしろい。

小さい頃、私も歳の暮れに家族で来たことがあった。
父と母と私。

父は、自分も幼い頃、年末になると母親に連れられたと
話していた。
「”千円も買うた”て、ぼくの母親が言うてた。いまは
ちょっと買うだけで一万円ぐらいすぐなくなるけど、昔
は千円でようけ買えたんや」
赤紙が来て祖父が戦争に行ったあと、祖母は女手一つで
父とその妹を育てて早死にした。
祖母と叔母と父。

そしていま、コブタとおさると私。
コブタやおさるも、そのうち新しい家族の三人で手をつ
ないで、この市場に来ることがあるだろうか。

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2004.11.30

実印の出番

京阪四条で母を見送った。
近くで見ても、遠くから見ても、やっぱりばあさん。安
物のババシャツ色の上着を着込んだ丸い背中。あちらが
ばあさんならこちらはおばさん。背筋がシャンとした、
気高く凛々しい老婆目指して日々精進中。


父の名義の預金や債権は、それを現金化する度に実印と
印鑑証明書が要る。

何年も前に作った夫の実印は未だに使ったことがないの
に、私が先日作った実印はすでに何度か活躍している。
実印は、印鑑証明書がなくては効きめがない。サインだ
けじゃダメな日本社会。日本人の筆跡に、個性はない?

たとえ数千円の預金でも、父名義である限り財産は財産。
そんなもの、雀の涙の年金で細々と生活してる母が、好
きに使って当然なのに。

母と弟と私で三通の印鑑証明書。市役所に払う手数料は
占めて950円。こうした書類やはんこのやりとりに、
書留代だの交通費だのを考えたら、そこそこの額になる。

人が死んで儲かるのは、お寺と葬儀屋だけじゃなかった。

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2004.10.19

10月6日 納骨とてんとう虫

昨夜の雨とはうって変わって、上着を脱ぎたくなるほど
の良いお天気。

小さな骨壺は、ただ骨壺の分の重みしか感じられない。
母が手縫いで用意した、白いサラシの袋を骨壺に被せ、
逆さまにすれば遺骨は一気に袋に移る。

骨壺を包んでいた白い布には、いつの間にかてんとう虫
が這っていた。

遺骨は、既に細かくなっており、摘んでみると、空炭の
ように軽かった。燃えかすなのだから、当然といえば当
然か。

45年前、祖母が土葬されたその土の上、父はいま、帰っ
ていく。やがては土に還っていく。来た道を辿るように。


納骨のこの日は、まず家の仏壇にお経をあげてもらう。
仏壇には、真新しい位牌が置かれていた。祖父母の位牌
の間で、子どもが両親に両手をつながれ、おニューの晴
れ着で遊園地にでも行くかのようだ。

お墓までは、タクシーで20分ぐらい。昨日の雨もあっ
て、天ヶ瀬ダムでは大量の水を放流していた。手前には
煉瓦づくりの発電所があり、なかなかの絶景である。

この宇治川ラインは、幼い頃に父の運転で何度も通った
道。父のバイクの後ろにまたがっていたこともあった。
車窓からの眺めは、昔とほとんど変わっていない。カー
ブだらけの道も、川の水の色も。

遺骨を墓石の下におさめた後、本堂でもう一度お経を上
げていただく。まったくの身内だけでこぢんまり集まっ
ているのだが、その中に父の姿が見えないということ。
これがやはり不思議だ。端の席でもいいから、こういう
ときは、いつも父が臨席していた。お経から解放された
あとは、本堂の仏像や仏壇を、しげしげと観察するのも
父だ。

実のところは父があの世へ一番乗り。それなのに、父を
どこかへ置き去りにしてきたようなこの感覚。時間軸の
上で振り返り、負の方向100日の一点。そこで父は、
まだ油を売っているに違いない。

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10月4日 手作りのお墓

母から電話。6日の納骨を前に、朝から一人でお墓の掃
除に行ってきたという。墓石の下を開け、ちゃんと遺骨
が納められる状態かどうか確認。お花も供えて準備は万
端。

実家のお墓は、小高い丘の上の一番端にある。土砂崩れ
で墓石が傾かないよう、崖の側は少し囲ってある。父が
生前に自分でしておいたものだ。ブロックがずれないよ
う、中に鉄筋まで通して本格的である。その鉄筋に、さ
び止めまで塗ってあったと母が言う。

ろれつが回らなくなってきた頃、それが脳梗塞の兆候と
も気づいていなかったと思うが、父はちょくちょくお墓
へ行っていたらしい。次は自分が入るのだという覚悟だっ
たのだろうか。

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9月27日 彼岸焼骨灰供養法要

火葬のあと主だった骨は骨壺に入れるが、入りきらなかっ
た分や灰は、こうして供養する。

これは、京都中央葬祭業協同組合と京都仏教会との共催
なので、その組合に入ってる葬儀屋さんにお世話になっ
たのでなかったら、この案内は来ないと思う。
9月から2月の間になくなった方は春のお彼岸、3月か
ら8月の間になくなった場合は秋のお彼岸に、供養して
もらうのだ。

父の納骨は百日の10月6日。メインの骨がお墓に入る
前に、骨灰の方を先に拝んでもらうとは、これまた父ら
しい。

朝から雨。家を出る頃はますますひどく。けれども、お
通夜と告別式が雨で今日の日が晴れてるのと、その逆を
選べと言われたら、もちろん後者をとる。本日の法要は
父だけが主人公なのではないから、だれかほかの雨人間
が大勢おられるのだろうよ。

南座前で母と待ち合わせ、タクシーで永観堂禅林寺へ。
待ち合わせの場所に約束の時刻ジャストで着く頃、道の
向かい側に母が見えた。黒い服を着た小さなおばあさん
だった。

永観堂の畳の間に、大勢の遺族が上がる。膝に装具をつ
けた私の左足は、もちろん正座ができないし、伸ばすわ
けにもいかない。中途半端な曲げ方をして座り、体重を
右足で受けること1時間半。
それでも、父の晩年の苦しみにはかなうまい。

法要は、金箔塗りの立派な仏壇の前で、大勢の住職さん
やお坊さん方に念入りなお経を上げていただき、それは
それは、盛大なお葬式のようだった。

浄土宗のお経は、「ほとけ様はとてつもなく立派。我々
は南無阿弥陀仏と唱えさえすれば、成仏して立派な阿弥
陀様のもとへ行ける。心を平らかにして、故人を見送ろ
う」みたいなことを述べているのだと思うが、ただただ
葬儀のことや、それに至るまでの末期の父の光景、そん
なものが思い浮かんで来るばかりだ。
ようやく故人が遺族の心の中で思い出になって行きつつ
あるこの時期に、かえって悲しみや悔しさを蘇らせてし
まったような気もする。蘇るなら、父よ、蘇れ。


法要の後、まだ色づいていない紅葉の庭を通って外に出
た。広い通りでタクシーをつかまえ、四条河原町へ。

四条通り、新京極。いままでに、もう何度も歩いたとこ
ろ。それなのに、母と二人で歩くのは初めてではないだ
ろうか。
嫁入り前に、父と母と三人で、この界隈を歩いたことが
ある。昼食に入った「京極スタンド」はまだ健在。

あれから14年。ずいぶん変わってしまった繁華街の、
昔と変わらぬ場所を見つけながら、黒装束のばあさんと
四十女が歩いている。「昔のまま」がどれなのか、それ
は母と私とでもかなり違った指摘になることだろう。そ
して、この瞬間の一片一片がまた、「母と歩いた思い出」
のひとつになっていくのだ。

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8月16日 四十九日

父の四十九日は、ちょうどお盆にあたる。そのため、初
盆は来年になるらしい。4月1日生まれの早生まれみた
いなものだ。

それでもなんとか四十九日の法要を終え、父の位牌は仏
壇に入った。生前にさほど信心深かったわけでもなく、
いったいどんな仏になってるのか知る人もないが、この
世に残った遺族たちは、それぞれに成仏を信じ納得しは
じめる。

これまでの七日ごとの法要も、遺族が故人の死を受け入
れるための、段階的なステージだったのだ。

結婚以来、こんなに足繁く実家に通うことはなかった。
こうして毎週のように足を運んでも、その度に父はどこ
かに出かけていて不在。いまだにそんな気がしている。
位牌の裏に父の名前が書かれているのも、なにかの他愛
ないいたずらぐらいにしか思えない。

屍を目の前にしていたときこそが、もっとも現実を認め
ざるを得ない心境であった。それが、さっさと骨や灰に
なった後は、どう考えても遺骨=父とは思えないのだ。

思えば、父とはまだまだ話したいことがたくさんあった。
脳梗塞と気づかぬうちからろれつが回らなくなり、その
言語障害が治ったなら、ゆっくりいろんな話ができると
思っていた。そんな無念を心の片隅にずっとしまい込ん
だまま、私もまたそのうち口のきけない死人になる。

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7月2日 火葬炉の熱気

火葬炉の扉が開くと、凄まじい熱気が顔をおそってきた。
この中に、父は入るのだ。もはや熱いと思うこともない
だろうけど、こんなところで抜け殻となった身体を処理
しなければならないのだ。

そうこうしているうちに、棺桶は花束を載せたまま、一
気に釜の中へ入っていった。
「パパ、バイバイ」
見えるわけもないのに、そっと手を振った。


火葬が終了するまで、1時間以上かかる。この間に、一
晩泊まった控え室を片づけ、供養の品の余った分を返品
したり、大きな荷物を一旦持って帰ることになった。斎
場の祭壇を自宅に移していただくため、鍵を開けに行か
ねばならないのだ。

夫の運転で、子どもも乗せて、家族で移動する。いつも
のドライブのメンバーが、きょうばかりはみな、黒い衣
装を着けている。

家のポストには、さっそく市役所から母宛に、「世帯主
変更届のご案内」が届いていた。

斎場に戻るとき、道々で「故○○○○儀」の案内を目に
した。いつもは年賀状の差出人のところに書かれていた
父の名前が、きょうはそこにも大きく書かれていた。


斎場に戻ってしばらくすると、一同は小さな部屋に通さ
れた。遺骨の載っている台は乾いた熱気を放っており、
外気の湿気を含んだ暑さとはまた違っていた。父の空気
だと思うと、ちっとも苦ではなかった。焼け切った墨の
ように白い骨は、見るからに元カルシウムだ。この骨が、
父の体の中に60年以上あった骨なのか。いま、初めて
こうして外気にさらされている。

骨壺に蓋をして、木の箱に入れ、白い布でくるんだ後、
それを孫の長女が指名されて持つことになった。液体
を持たせたらこぼし、ものを持たせたら落とす子どもで
ある。我が一家はどきどきハラハラ。少しして、移動す
るときに弟が代わってくれることになり、ほっと胸をな
でおろしていた。

こんな一家の長女、次女、そして私の中に、父が生きて
きた証があるってのも、父らしい因果である。

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7月2日 告別式と赤い花

この年になってさほど不思議でもないが、自分が父のい
ない人なのだなぁと、心の中でつぶやく。とても乾いて
いて実感のない感覚。このまま、事実はどんどん風化し
ていくのだろう。

立派に飾られた祭壇の真ん中に、なぜか父の写真が飾っ
てあり、父の親戚や知人が集っているというのに、その
中に父の姿はなく、母や私はこの祭典の主人公よろしく、
会場の前の方に座っている。

焼香のときは、遺影の父とまともに目を合わせることに
なる。父の死体が横たえてあるその手前に、なぜにあの
ような元気な様子の顔写真が飾られているのか。まるで
騙されようとしているようだ。

告別式に続いて、次はいよいよ火葬。棺桶の蓋が開けら
れ、めいめいが手に持った花を添えていく。私は、葬儀
屋さんが渡してくれた赤いグロリオサを父の左手に添え
た。ネリネにも似た、華やかさのある花だ。そして、な
ぜかこの花だけが赤かった。ユリと彼岸花が好きな私が
父に贈るには、最もふさわしい花だったかもしれない。

このときというのは、葬儀の一番のクライマックスであ
る。母も、弟も、それぞれに最後の別れをした。父にす
れば、もっと早くにこの世のすべての生老病死とおさら
ばしていたのだが。

父の顔は、やはり冷たかった。それでも、唇にそろそろ
死斑が出てきてもいたし、もう、火葬にするしかないの
だ。私にとっての父は、このように目を閉じて話すこと
のできないうつろな身体ではない。いつまでも元気で、
器用で、子どものように冗談を言って、ときにはコーヒー
カップを片手に遠くを眺めている。それが父だった。目
の前のこの死体は、もう、いつまでも晒しておくもので
はないのだ。

ここで棺桶に蓋をされたあとは、もう、顔の部分の窓が
開けられることもなかった。
最後に母が花束を上に載せて、閉じられた大きな木箱は、
さっさと火葬炉の方へ案内されていく。僧侶の次に位牌
を持った母、遺影を持った私、骨壺を持った弟と続く。

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7月1日 お通夜のあと

お通夜をすませたあと、斎場で一夜を過ごした。
時折、蝋燭や線香に火をつけ、遺影に向かう。遺影の父
は、まだ元気だった頃の顔だ。

実感がわいていないだけなのか。ただ、この場に父がい
ない。けれどもどこかにいる。そんな感覚しかない。本
当は、その魂の抜け殻みたいなものが、遺影の向こう、
棺の中に横たえてあるのだが。
棺の中の死体にすら知覚がないのだから、遺影の向こう
に声をかけたところで仕方がない。まったく、父は一体
どこへ行ってしまったたのだろう・・・。

ここ以外のどこにもいないということをよく考えてみれ
ば、それじゃあ、私の中にいるような気もする。実際、
DNAが私の中で引き継がれている。私自身に、父と似
ている部分もあり、それが父である。

互いに肉体を持っていたときは、もう、何年も離れて住ん
でいた。たまに実家に帰ったとき以外は、父は遠くにい
た。けれども、片方が肉体を失ったいま、むしろ父がと
ても近くにいる。肉体によって限定されないため、どこ
にでも存在できる。ただ、そこに父の意志はないのだろ
うけど。

母も弟も、ときおり父の気配を感じたり声を聞いたりす
るという。ずっと一緒に暮らしてきたから、そのような
自己防衛的ともいえる条件反射のような幻聴、幻覚があ
るのだろうか。

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7月1日 納棺と出棺

お通夜も告別式も、市の斎場でとりおこなう。出棺の予
定は3時。いまのうちに父の顔をそっと触ってみる。ド
ライアイスが効いてるから、冷たい。

10分前に葬儀屋さんが到着し、手慣れた手つきで、あ
れよあれよという間に出棺の準備が整っていく。

病院から家へ、家から火葬場へと、死体を移動させる度
に、遺族には現実が目の前に突き出され、葬儀屋の手際
の良さは恨めしくも感じられるものである。けれども、
肉体へのこだわりを早く捨て、故人を送る心の準備をす
べきなのも事実だ。

棺桶には、新しいグレーのTシャツ、お気に入りだった
迷彩色の帽子、黒いアームカバー。それだけを入れて納
棺。このような光景を前に、どうあがいても目の前の事
実を否定することはできない。奇跡は起こらないのだ。
死体は、時間とともに変化していく。

最後に、玄関を出たところで葬儀屋さんが父の使ってい
た茶碗を割る。まるで正月の儀式のように、ものごとが
きちんと形式やしきたりに則って執り行われていた。

部屋を出るとき、父は棺桶の中からなにを見ただろうか。

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6月30日 午前10時45分

人の身体とは、命が抜けてしまえばまったく抜け殻。人
形と いうよりもただの物体。

「はやくはやく」と母に急がされ、私が病室に入ったの
は10時35分頃だったろうか。部屋の隅で誰かが泣い
ていた。それが弟だったと後で気づいた。

父は、機械で心臓を動かされていた。だから、まだ心電
図のようなメータがピコピコと音は立てていた。
救急法の講習で、人形を使って人工呼吸や心臓マッサー
ジの練習をすることがある。上手にできていると、人形
に取り付けられたランプが点滅する。それと同じ。

元家族4人が揃ったところで、機械の任務完了。
父も臨終を完了した。


今朝、のんびりと家を出た。駅まで行く途中、3羽ほど
の烏がやけににぎやかだった。もう、とっくに覚悟はで
きていたはずだ。元気だった思い出が、父だ。いま病院
にいるのは、父であって父でないようなもの。
動かない死体を前にして、父は私の思い出の中にしかい
ないと思った。

目と口を閉じさせると、父の顔はちょっと笑っているよ
うに見える。思うように動けなくて悔しかったにちがい
ない二年間。ようやく、楽になった? よかったね。

この世で生きているときは、父の存在はその姿形に限定
されていた。けれども、この世から解放されたいま、父
はいつでもどこにでもいるような気がする。この次元の、
この時間軸のところにいないというだけで。


病院も、葬儀屋さんも、お坊さんも、それがお仕事。第
三者。彼らは仕事をしており、我々はお客さんだった。

家に帰りたがっていた父は、寝台車に乗ってようやく退
院した。四人で自宅に向かう。こんな形で帰るなんて、
ちょっと情けないかも。

ベッドを片づけ、布団を敷いて、一階の部屋に父が運び
込まれた。おかえり~。ここならテレビも見られるし、
自分で作った暖炉があるし、自分で建てたお気に入りの
はなれも見えるよね?


なんとなく慌ただしいような、それでいて静かな一日。
午後7時を過ぎた頃、私は一旦自分の家に戻ることにし
た。しばらく、お通夜だの葬儀だので慌ただしくはなる
が、何が変わったという気もしない。帰りの電車の中で、
すれ違う人々はそれぞれに楽しそうだったり、疲れてい
たり、無表情だったりしていた。いつだって、時間が流
れている。

帰宅してカレンダーを見たら、本日大安吉日也。

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6月29日 そうとは知らない前夜

考古学好きの長女のために、夫がインディージョーンズ
のビデオを借りてきた。
クライマックスで、撃たれて瀕死で横たわっている父親
の傷口に、聖杯の水をかけるシーン。燃えている木に水
をかけたら煙をあげて灰が残っている。そんな感じの映
像で、その灰もそのうちに消えて、傷口が見る見る復活
していく。映画だから奇跡が起こってる。

けれども、現実の世界に、やはり奇跡はないのだろうか。

夜、私のサイトへ久々の投稿があった。よりによって
「死にたい」というような内容。匿名のこうしたメール
はめずらしくないが、なぜ、今夜寄こしてきたの。

父は、そろそろ休みたいと思っているのだろうか。なん
とかがんばりたいと思っているだろうか。私はまだあき
らめたくないし、最後まで信じていたい。ちょっとした、
なんらかのきっかけで、少しでも何かが好転してくれる
ことを。

どろどろの汚れた血が体内で淀んでいる。時間の経過と
ともに、容態は悪化の一途を辿るのみなのだろうか。

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臨終の近傍 序

四十にもなれば、片親が既に他界しているというのも珍
しくはない。いつまでも元気でいてほしい親だが、いつ
かは、見送らねばならないときが来る。

この夏、父が帰らぬ人となった。けれども、私は自分自
身の悲しみを、まだきちんと受けとめていないような気
がするのだ。

逆光で見る花は、シルエットしかわからない。その色が
あせてしまう前に、言葉の中に永久保存しておきたい。

そんなわけで、父の臨終を一つの拠点として、心の奇跡
を綴っていこうかと思う。

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